横須賀簡易裁判所 昭和31年(ろ)264号 判決 1958年2月19日
被告人 小沢孝松
主文
被告人を罰金弐万円に処する。
右罰金を完納することができないときは金四百円を壱日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
但し本裁判確定の日より弐年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
一、罪となるべき事実
被告人は、横須賀市消防吏員として米ヶ浜消防署大津出張所に勤務し、消防自動車の運転の業務に従事するものであるが、昭和三十一年八月二十八日午後七時三十五分頃火災現場へ出動のため消防自動車神第八―二二二号を運転し横須賀市大津方面から同市日の出町方面に向い時速約六十粁で進行し同市安浦町二丁目二十四番地先交さ点にさしかかつたが、凡そ消防自動車の運転者たるものは、常に進路前方及その左右を注視し障害物を早期に発見しこれを避け公衆に危害を加えないような方法で操縦すべき業務上の注意義務があるのにもかかわらず、前方右側に対する注意を怠り漫然疾走した過失により、進路を右より左に横断しようとしている内藤カツ(当五十七年)に気付かずその手前約十一米で初めてこれを発見し、狼狽のあまりこれを避けようとしてハンドルを右に切り、急停車の措置を執つたが及ばず、右自動車を同人に衝突させて同人を路上に顛倒せしめ、因つて同人に対し治療一ヶ年を超える両大腿骨骨折等の傷害を負わせたものである。
一、証拠の標目(略)
一、法令の適用
被告人の判示所為は刑法第二百十一条に該当するので所定刑のうち罰金刑を選択し、罰金等臨時措置法第二条第三条を適用してその所定罰金額の範囲内において被告人を罰金弐万円に処し右罰金不完納の場合につき刑法第十八条を、訴訟費用の負担につき刑事訴訟法第百八十一条第一項本文を各適用する。
尚本件交通事故の発生については被害者が被告人の運転する消防自動車が赤色の前照燈を付けサイレンを吹鳴して近接して来るのに対し何等身体(特に視覚及聴覚)に障害がなかつたのに拘らずこれと衝突に至るまで全然気付かず待避をしなかつたことが主要なる原因をなしている点とその他諸般の情状を考慮して刑法第二十五条第一項罰金等臨時措置法第六条に則り本裁判確定の日より弐年間右刑の執行を猶予することとする。
一、被告人及弁護人の無罪の主張に対する判断
1 消防法第二十六条の規定について
凡そ消防自動車が火災の通報に応じて現場に赴く場合は道路交通取締法第十六条により第一順位の緊急自動車として優先通行権を認められ、然もその本来的機能達成のため一般の諸車と異り高度の速度をもつて迅速に目的地に到達し得る様その最高速度を時速八十粁まで承認せられ、一方又消防法第二十六条は消防車の優先通行権を認め車馬及歩行者は火災現場に赴く消防自動車に対し道路を譲るべき旨を命じている。
従つて、通常消防車の進行については、むしろ一般通行人が道路を譲りその進行を待避しその通過し終るのを待つて初めて通行を開始すべきものであり、消防車の運転者としては何時でも消防車を停止せしめて事故を未然に防止し得る程度に速力を低減徐行することを要するものではない。
而して本件交通事故の原因は、被害者たる内藤カツが消防法第二十六条の規定を全く無視し、突然被告人の運転する消防車の進路前方に進出したために生じたものであつて、その責任は全く被害者内藤カツにあるものであり、被告人は消防法の定めるところに準拠して正当なる業務として職務を執行するものであつて、右事故の責任はないのであるから本件は無罪であると謂うにある。
よつて按ずるのに勿論消防車は火災の通報に接し急速に現場に赴くため、一般の諸車と異り道路交通取締法並に消防法の規定により優先通行権を認められ、尚最高速度も神奈川県道路交通取締規則第四条により時速八十粁まで認許せられ、道路交通取締法第十九条第二項の規定により停止の表示のある交さ点において徐行義務を有するがその他の道路においては正常の運転をなし得る状態にある限りあらかじめの危険発生に備えての徐行義務のないことは明白であり、本件事故発生の現場たる交さ点は停止の表示のない交さ点であることも又当裁判所の検証の結果明らかなところであるが、そのため消防車の運転者に前方及その左右の注視義務がないということが出来ないことはこれ又当然の事理である。即ち火災現場に急行中の消防車の運転者たる被告人と謂えども他の一般自動車のそれに比し前方注視ないし事故防止の義務を免除ないし軽減するものではなく常に進路前方及その左右を注視し障害物を早期に発見しこれを避け公衆に危害を加えないような方法で操縦すべき義務があるのであつて、一般通行人との衝突の危険を発生すべき虞れのある特別の事情が予め看取された場合には、その危険発生の結果を防止し得るよう消防車の速力を低減し、または一且その進行を停止して、危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があることは明白である。このことは一般通行人が皆完全に自動車との衝突による災害発生の防止に対応し得べき注意能力を具有していないこともあり得ることを考え併せるときは当然承認せられなければならないところであり、凡そその機能よりして若しその運転を誤るときは一般通行人等の公衆に対し危害の発生の虞れのある自動車の運転者としてはその運転する自動車の種類如何を問はず常にこれを安全なる方法によつて運転し、公衆に危害を加えない様な方法でこれを操縦すべき責任を有するものとしての帰結である。
今本件についてこれを見るのに、本件事故発生時においては証人本多一行が当公廷において証言する如く同人はその時は小雨が降つており右消防車の運転台に被告人と並び座つていたが前方の見透しは五十米位可能であり、同人は本件被害者内藤カツが前方五十米位の位置において已に道路の横断を開始し、道路に進出して来ているのを発見して居り、又当裁判所の検証(第一、二回)の結果右事故発生時における現場の前方見透し可能なる距離は大体五十米位であり且つ同所附近は見透しを妨げるもののない幅員十五米のアスフアルト舗装の直線の道路であることが明瞭なるに拘らず、被告人が本件事故に際し被害者内藤カツを初めてその前方に発見したのは同人との距離が僅か十二、三米位に近接した地点であることは被告人が当公判廷で自認するところであり、然も司法警察員作成の実況見分調書の記載と当裁判所の検証(第一回)の結果を綜合すれば、被告人が初めて被害者内藤カツをその前方に発見した位置は同被害者の前方約十一米手前のところであることが認定出来るのである。
従つて、被告人が若し前方及その左右の注視を怠らなかつたならば、被告人は当然被害者内藤カツが已に道路中央附近まで進行して来ていたのをその約五十米前方の位置において発見し得たのであつて、斯くの如く被害者が已に道路中央附近まで進出して来ていることは特異なことであり異常の状態と見るべきであつてそのまま進行するときはこれと衝突の危険の発生すべき虞れが充分にあるのであるから、斯る特別の事情の存する場合には火災現場に急行中の消防車の運転者たる被告人と雖えども速力を低減し、同人のその後の挙動に一層の注意を払い何時にても機宜の措置を執り得べき体勢を整え、その衝突の危険発生の結果を防止すべき業務上の注意義務があるのであつて被告人が一般通行者は当然消防自動車に対しては道路を譲るものと軽信し漫然疾走したため被害者内藤カツをその前方僅か約十一米において初めてこれを発見したことは正に被告人の前方及その左右の注視義務の懈怠であると論断せざるを得ないのであつて、正当なる業務の観念の容れる余地のないことは明白なところである。
もつとも被害者内藤カツが当時身体(特に視覚及聴覚)に何等の障害がなかつたのに拘らず警笛を鳴らし赤色燈を付けて近接して来る被告人の運転する消防車に全然気付かず、その進路を横断せんとし待避の姿勢をとらなかつたことは同人の不注意でありその過失が本件事故発生の重要なる原因をなしていることは勿論であるが、このため被告人の前示前方及その左右の注視義務が免除せられるものとすることは出来ないのであつて、その結果被告人が機宜の措置を執ることの余裕がなく、狼狽のあまりこれを避けようとしてハンドルを右に切り急停車の措置を執つたが及ばず遂に右自動車を同人に衝突させて判示の如き傷害を与えたのであつて被告人の過失責任は到底免れ難いところである。
2 緊急避難の主張について
被告人は、本件事故発生においては時速約六十粁の速度を以つて消防士長本多一行外四名の勤務員を乗せ該消防車を運転していたものであるが、当時路面は小雨が降つていたためブレーキが殆んどきかぬ状態であつたのに拘らず、被害者内藤カツがその手前約十三米位のところから急に歩き出したため本件事故が発生したのであつて、若しこの場合被告人が急停車の措置をとつたとすれば消防車はスリツプして顛覆することは必然である。而して、若し顛覆せんかその消防車に乗車中の勤務員の生命、身体に対する危難の発生も又必然である。
従つて被告人の本件事故発生当時にとつた行為は、自己又は他人の生命身体若しくは財産に対する現在の危難を避くるため已むことを得ざるに出た行為であつて違法性阻却の事由となるのであるから本件は無罪であると謂うにある。
然し前示認定のとおり本件交通事故は被告人の前方及その左右の注視義務の懈怠が原因をなしているもので、若し被告人が右消防車に同乗せる証人本多一行と同様被害者内藤カツをその前方約五十米の地点において発見していたならば、被告人はこれと衝突の危険の結果の発生を予見し得たのであるから一層内藤カツのその後の挙動を注意し、これと衝突を避け得る様何時にても機宜の措置を執り得るため徐行すべき業務上の注意義務があつたのに拘らずその注意義務を怠りその前方約十一米の距離に至つて初めて被害者内藤カツを発見し、急停車の措置を執つたものであるから例え当時路面が小雨のためぬれていてブレーキの操作が充分でなかつたとしてもそれは被告人が急停車の措置をとるべき以前に当然常に用いざるべからざる前方及その左右の注視義務を怠つたため突然急停車の措置を執らなければならない事態を惹起したものであり尚又当時路面が小雨のためぬれていてブレーキの操作が充分でなかつたものとすれば、被告人は予めそのことを考慮して速度を適宜に低減すべきであつて論旨の緊急避難の主張は本件においてこれを容れる余地がないことは明らかである。
3 因果関係の中断の主張について(略)
4 期待可能性の主張について(略)
以上の理由によつて被告人及弁護人の無罪の主張はいずれも採用しない。
(裁判官 大畑宗二)